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第16話 新しい生活

作者: 柳 雪音
last update publish date: 2026-06-14 06:31:42

「……だからかな」

白石は、小さく笑った。

「知り合いでも、そういう人がいたんだ」

「え?」

凛は白石を見つめる。

白石は目を細めて凛を見つめ返した。

「いや、なんか、放っておけないな、と思って。一条さんのこと」

二人の間に再び沈黙が流れる。しかし、今2人を包み込んでいるのは、真心の温かさだった。

やがて、口を開いたのは白石だった。

「お茶、もう一杯淹れようと思うんだけど、一条さんも飲む?」

「え、あ、はい・・・!」

凛は慌てて頷いた。

「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」

「えっと……紅茶で」

「了解」

白石はキッチンへ向かった。

やかんから立ちのぼる湯気を眺めながら、凛は胸の奥が少しだけ軽くなっていることに気付いた。

雲城市の夜は、喧騒に満ちていた。

それでも、このアパートの部屋だけは、穏やかな時間が流れていった。

***

(・・・昨日は、久しぶりに人と話したなあ・・・)

凛はぼんやりと思い出していた。

温かな部屋。オムレツの香り。

そして——白石の何気ない一言。

「また作ろうかな」

(また……)

その二文字が、凛には少しだけ眩しかった。

昨日までの自分には、想像もできなかった言
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    ベージュのパンプスは、変わらず優美な曲線を描いていた。(こんなに綺麗な靴、なんだか烏滸がましいわ・・・)凛は耳を赤らめながら指先を入れる。ソールは吸い付くように足裏に馴染んだ。「このような服装を予定しております」凛は説明しながら椅子から立ち上がる。(私じゃないみたいーー)鏡の中には、優雅に佇む自分の姿があった。怜は腕を組んだまま黙っていた。ノースリーブから覗く白い肩に、怜の視線が一瞬だけ止まる。「……」「何か、おかしいですか?」「……いや」(目に毒だな)怜は凛から視線を外した。「……寒くないか?」「え?」「会場は冷房が強い」それ以上何も言わなかった。凛は怜のチェックが無事に終わったことに安堵した。(神崎役員は本当に仕事熱心な人なのね)凛の口元から笑みがこぼれる。服装のせいか、いつもより少し堂々と、大胆になっている……しかし、そんな自分が嫌ではなかった。立ち姿をさらに確認してもらおうと、足を踏み出す。一歩、二歩。歩み始めた瞬間ーー「あ!」ヒールが揺れ、凛はバランスを崩した。そしてーー「危ない!」怜は鞄を投げ出し、駆け寄った。遠くでドサリと音がする。鞄が地面に付いた音であり、怜が膝を付いて凛を支えた音でもあった。(え……あれ……??)凛は、怜の腕の中にいた。ドッドッと早く脈打つ心臓の音が重なる。薄い肩を抱く腕は、力強く、温かかった。「はあ…良かった」怜は深くため息を吐き、凛を椅子に腰掛けさせた。「ケガは?」「だ、大丈夫です……」凛は赤面して項垂れた。恥ずかしくて、一刻も早く帰りたかった。怜はスッと立ち上がると、視線を垂水に向けた。「歩けない靴では困るな」怜は当然のように言った。「それから、ジャケットも。彼女はプロフェッショナルだ。男がスーツなら、彼女もそれに見合う格好をするべきだろう」店内は静まり返った。凛だけが、なぜ自分のためにそこまでしてくれるのか、分からなかった。けれど、不思議と居心地は悪くない。神崎怜は、凛にとってーー

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  • 雲城市の黒い契約 ~追放花嫁と檻の帝王~   第20話 初夏のレビュー

    (うう・・・緊張する…なんで私が・・・)凛は胃が痛かった。資料を配り終え、説明者席に座る。役員レビューの説明者。華々しい仕事と言えばその通りであるしかし、相手は「事業整理家」として知られる無情な役員である。そして・・・その役員こそが、神崎怜であった。(この人、私とそんなに歳が違わないのに、重役なんだ・・・)しかし、親しみやすさはまるで感じなかった。「事業整理家」「コストカッター」そうした通り名にふさわしい、無慈悲な雰囲気を漂わせていた。「本日はお時間をいただき、ありがとうございまひゅ!」事業部長は揉み手で挨拶をし、緊張のあまり語尾を噛んだ。「それでは、一条より説明させていただきまひゅ!」また噛んだ。しかし、凛は緊張のあまり、その言葉をあまり聞いていなかった。「ーー以上が、本事業の今期スケジュールとなります。ご質問はありますでしょうか」凛は淡々と説明を終えた。怜は冷たい目で資料を一瞥する。収益見通しのページで手が止まっている。凍りついた時が流れる。トン・・・トン・・・トン・・・机を叩く音だけが響く。やがて、怜は口を開いた。「事業部長」「はひい!」「2、3確認したいことがある。追ってメールする」「はひい!」「あと・・・説明者の君、名前は?」「い、一条凛です!」「・・・一条君」怜は少し考え込んだ。「君にも、事業発表会に来てもらいたい。上長に話は通しておく。準備は垂水と話してくれ」(事業発表会ーー!?)それは今月末に予定されている、事業部で最も重要なイベントであった。(私も、裏方として出席予定だけれど・・・)凛は上司の方をチラリと見る。上司はバネ式玩具のように、首を縦に振り続けていた。(ダメだ、誰もフォローしてくれる気配がない)「承知いたしました」何が分かったのかよく分からないまま、凛はこれ以上ないくらい明瞭な返事をした。

  • 雲城市の黒い契約 ~追放花嫁と檻の帝王~   第19話 すれ違う残像

    乗用車は交差点の少し先で、ゆっくりと停車した。「失礼」運転手がドアを開けるより早く、怜は自らドアを開けた。交差点の方を見る。一条凛の面影を見た、あの交差点を。しかし、そこには——誰もいなかった。信号はすでに青に変わり、歩行者たちは行き過ぎた後だった。「どうされました?」部下が慌てて怜に駆け寄る。「ああ……」怜はハッと我に返った。「すまない……何でもなかった」怜は再び車に乗り込み、ドアを閉めた。表情は完璧に無表情を保っていたが、膝の上の拳は強く握り締められていた。(……どうかしている)車を止めさせた理由など、自分でも説明できない。もし本当に一条凛だったとしてーー今さら会ってどうするのか。彼女に合わせる顔はない。謝りたい?一目元気な姿を見たい?そんな資格など、自分にはない。(一条凛……お前を壊すのが、俺じゃなければよかった)あの日、彼女に告げた言葉が蘇る。(……自分とは、違う世界で生きて欲しいと願った)怜は窓ガラスに映る自分の横顔を見つめた。(……しかし、彼女のいない世界は、あまりにも……)「あまりにも……何だというんだ?」車が再び走り出す。艶やかな漆黒の車体は、雲城市の町並みを鏡のように映していた。大通りを彩る新緑の光は、車内まで届かないようだった。怜は窓の外を見つめながら、静かに息を吐く。胸の奥が、疼くように熱かった。* * *街路樹から木漏れ日が差し込む。凛は穏やかな日差しを見上げた。(あの人に声をかけられたのも、こんな新緑の季節だったな)凛は、神崎怜との奇妙な出会いを思い出した。1年前のある日。凛は神崎グループの新規事業部で営業アシスタントをしていた。会議室の空気は、ヒリヒリと張りつめていた。巨大なテーブルの上座に、神崎怜が座っていた。冷たい視線、完璧なスーツ、感情を一切見せない横顔。その場にいる誰もが、自然と息を潜めていた。凛は資料を配りながら、そっと怜の姿を盗み見た。近づくことすら許されない、遠い存在。それが、当時の凛にとっての神崎怜だった。(あの時は、まさか自分がその人の「妻」になるなんて、夢にも思わなかった……)それは、凛の人生を大きく変えた、初夏の出来事だった。

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